あさみピアノ教室 講師
7歳よりピアノを始める。
渡辺卓、柴野さつき、奈良康佑、ルイ・レーリンクの各氏に師事。
ピアノ指導歴30年。
ヤマハ講師(演奏・指導グレード)・カワイ講師(演奏・指導グレード)資格所有。
「ピアノは一生の友だち」を自身のテーマとして、幼児からシニアの方までのレッスンを行うとともに、演奏者としての活動も続けている。
(各種演奏会出演・自宅でのサロンコンサート・老人ホームでのボランティア活動など)
聴く人の心に響く演奏が届けられるよう、日々研鑽を積んでいます。
関西出身。3人きょうだいの長女。
幼稚園のころ、母が大病を患い、祖父母の家に預けられる。
祖父は、お風呂の中で、たくさん童謡を歌ってくれた。
私の音楽の原点は、祖父の歌う童謡だと思っている。
祖父の声は今でもよく覚えている。
7歳でピアノを習う。
「ピアノを習いたい」、おとなしかった私が母に初めてねだったことだった。
母は、病気をして不憫をかけたという思いもあったらしく、電子オルガンを買ってくれた。
ピアノを習い始めて1年も経たないうちに、オルガンの鍵盤が足りないとピアノの前で泣いたらしい(私は覚えてないが)。
ある日、母は京都の十字屋の大きなピアノ倉庫に私を連れて行き、好きなピアノを選ばせてくれた。
私が選んだピアノは、私の生まれた年に製造されたウォールナットのヤマハのピアノだった。新品のピアノも買える値段だったらしいが、私はそのピアノが気に入った。明るく柔らかい音がした。ピアノが初めて家に来た日の喜びは忘れない。私はピアノの虜になった。
私は一度も「ピアノの練習をしなさい」と言われたことがない。
テレビなどで流れる曲は1~2度聴くと覚えて、伴奏も自分で和音をつけて弾いたりしていた。ピアノの先生になりたいという夢は、このころに芽生えた。
音感がいいとよく言われた。
新しい先生は、とても優しい女性の先生だった。もうバイエルは終わっていたけれど、指の形も、強弱も何も教えてもらってなくて、「今まで一体何を習ってきたの」と言われた。 その後、何度か先生を替わることになるが、そのたびにそう言われた。私は自分の生徒にはそういう思いをさせてはならないと胸に深く刻んだ。たとえ趣味で習う子でも、基礎はきちんと年齢に合った教え方で指導しているつもりである。音楽を楽しむためには、必要なことだと思うから。
中学に入ると同時に、吹奏楽部に入部。クラリネットを吹く。
高校の音楽科を目指し、受験勉強を始める。
ピアノに加えて歌やソルフェージュを習う。
順調に音楽の道に進めると思いきや、大事件勃発! 突然の転居!
中3の夏休み、友だちに「さようなら」を言うこともなく、北海道に。
その後、家庭の事情で関西と札幌を行き来する日々。
思春期の大事な時期に不安定な生活を送ることになる。
それでも、私はピアノをやめなかった。
「私にはピアノがある」という思いが私の支えとなった。
そんな私に思いがけない天からプレゼントが!
作曲家、木村雅信先生との出逢い。
当時、住んでいたマンションにピアノの音がときどき聞こえてきていた。
それは、すごく上手なときもあったし、そうでもないときもあった。
明らかに違う人が弾いているような感じだった。
あれは、絶対ピアノの先生に違いない! と思った。
ピアノの音を頼りに、その家のチャイムを鳴らしてみた。
「ピアノの先生ですか?」という私に、先生は、とても愉快そうな顔をされて「どうしてわかったの?」とおっしゃった。
それが木村先生との出逢いだった。
大学で教えておられた先生は、中学生の私をとてもかわいがってくださった。また、聴音がよく出来るから、作曲科に入ればどうかと言われた。
木村先生には引っ越すまで、1年くらいお世話になった。
サインをしてくださった先生の全音ピアノピースは、セピア色になって先生の思い出とともに私のピアノの楽譜棚にある。
両親のゴタゴタに巻き込まれ、関西と札幌の行き来をしていた私は、転校先の札幌の中学校も出たり入ったりで、学校でも私の成績を把握してもらえてなかったし、公立高校の願書受付にも間に合わなかった。高校事情も全く知らない私は、先生の言われるままの私立高校に入学した。
入学してすぐの学力テストは、各教科の上位が廊下に張り出されたが、私はすべての教科でトップクラスだった。
高校受験では勉強に取り組めるような環境になかったけれど、それでこんなにいい成績が取れるのなら、もっと勉強しようと思った。
その後、卒業するまで、成績は常にトップクラスをキープした。
進路を考える時期になった。ピアノは習っていたが、音大受験のための勉強は出来ていなかった。
クラス担任が理科の先生で、理数系が得意だから、薬科大学に行ってはどうかと勧められる。
家に帰って親に相談すると、親も賛成してくれた。
あっという間に、学校では私を薬科大学に入れるためのプロジェクトチームが発足した。
私の授業の空き時間と先生たちの空き時間が組まれていて、物理、化学、数学の先生が、学校で習わない教科書の部分をマンツーマンで見てくれた。
夏休みは先生の家に通った。家庭環境に恵まれていなかった私は、他人なのに何の見返りもないのに、どうしてここまでしてくれるのだろうと思った。先生たちを裏切らないためにも、私は一生懸命勉強した。
高3の10月になったある日、私の部屋に来た父に突然、薬科大学受験をあきらめてほしいと言われる。明くる日、職員室に行って先生に報告するも、ボロボロと涙があふれてきて止まらなかった。悔しい気持ちよりも、先生に申し訳ない気持ちのほうが大きかった。
志望校を断念した私は、勉強をした科目で受験出来るところを探し出し、地元の短大に行った。
短大では、グリークラブの伴奏、部長を務める。クリスマス礼拝の仕切りと伴奏も行った。礼拝の日、音楽の教授が私のピアノにパイプオルガンを合わせてくださった。それは私にとって、とても感動的なサプライズだった。
2年生の夏休み、ミス○○○で全国を回ってくれないかという話が突然舞い込む。
出発日ももう決まっている、チケットの手配もしていると言われたが、あまりの突然の話におじけづき、丁重にお断りをした。あのとき行っていれば、もっと見聞が広まっていたかもしれない。
テレビ局の仕事に慣れたころ、母校のゼミの教授からある日電話が。
まさかのヘッドハンティング!
「あなたにぴったりの仕事があるので是非紹介したい」と。
他のゼミの先生が、私にとおっしゃっているというのだ。
国立大学の教授秘書の仕事だった。
英文タイプ必須だったのに、英文科の人たちに混じって試験を受け、なぜか合格。
テレビ局を退職し、次の日から大学に勤める。
仕事が終わってからタイプ学校に通い、英文タイプをマスターする。
教授は、湯川秀樹博士の愛弟子でとても厳しく、学者にとって論文は命、一分一秒を争うと叩き込まれ、死ぬほどタイプを打たされ、タイプの達人になる。
その後、職場の配置換えで、宇宙飛行士 毛利衛さんのお兄さんの下にも就いた。毛利先生は、弟さんをもっと素敵にした感じで、とてもジェントルマンだった。かわいがってもらった。当時、同じ学内に衛さんもいた。
放送局勤務のときは、制作するほうの仕事だったけれど、撮される側になったこともあった。ある日、テレビカメラがあるなと思いながら職場までの道を歩いていると、その日の夕方の天気予報のバックに、ずっと私の歩く姿が流れていたと見ていた人から聞く。残念ながら、私はその映像を見ていない。
そのころ、生徒は15人くらいだった。
もし、一生独身だったら、これでは食べていけないと危機感が……。
新聞の求人欄で副業を探す日々。
秘書時代に身に付けたタイピングを活かせる仕事を見つける。
しばらくそちらの仕事もしていた。
弾きながら、ふと思う。
ピアノ人生の中で、今が一番幸せなんじゃないのかなと。
私は ピアノにずっと片思いしてると思ってた。
こんなにピアノが好きなのに、ピアノは私から離れていく。
そんな思いを何度繰り返してきただろう。
物理的に、自分ではどうしようもない理由で思うように練習出来ない時期が幾度となくあった。
これは、もうあきらめなさいという天の声なのか と思ったときもあったけど、あきらめ切れなかった。
ここにきて、やっと、ほんとにやっとピアノとの距離が少しだけ縮まったような気がしている。
ピアノが私に近づくことを許してくれたような。
そうすると、ピアノは私に新しい世界を見せてくれるようになった。
音の向こうの景色が以前より広がって見えるようになった。
ピアノと親密になって、弾くことも、教えることも、もっと好きになった。
ピアノを教え始めた20代のころ。
子どもたちや保護者の方たちの中間の年齢、ひよっこ先生の私は戸惑った。
自分の立ち位置をどこに置いていいのかわからなかった。
たくさんの本を読んで勉強をした。
教材研究や公開講座もよく聞きに行った。
でも、それらはマニュアルであり、10人の生徒がいれば10通りの接し方(教え方)があるわけで。
たくさんの生徒たちとのかかわりや、日々の積み重ねがあって、今の私がいる。
保護者さんたちより年齢が上になっていて、子どもたちも、そしてお母さんたちも無条件に愛おしい。
先日、雑誌取材のカメラマンさんに、レッスンの様子を撮っていただいたときのこと。
「スイッチ入りましたね」と言われて、テンションの上がってる自分に気づいた(普段の5割増しくらいかも)
大人の生徒さんたちからは「イメージしやすい説明」「そういうことを教えてもらったことがなかった」と言われることが断然増えた。
それは、私自身が勉強を続けてきて、教えてきて、自然と出来た‘私スタイル’
体験レッスンのとき、生徒たちとの接し方を話すと涙してくださる方がいたり…。
私の想いに共感してくださったのだなと思うと、心から嬉しくなる。
私は、誰もが認めるプロフェッショナルなピアニストではない。
でも、会場にいる1人の人にでも、心に響く音楽が奏でられたら嬉しいと思う。
私は、コンクールにたくさん入賞させたり、音大に大勢輩出できるような凄腕のレスナーではない。
でも、彼ら彼女らが、演奏することの楽しさ、喜び、音楽の深さを知って、これからの人生が少しでも豊かになってくれれば嬉しいと思う。
彼、彼女らに、ずっと寄り添っていきたいと思う。
ローマは一日にしてならず。
ピアノを勉強し続け、レスナーとしての経験も重ねてきて、やっとたどり着いた今、この場所。
でも、これが一番じゃない。
これから、まだまだ前に進みたい。
死ぬまで現在進行形でありたいと思っている私がいる。
今朝もまたちょっとだけと思いながら、気がついたら1時間。
真っさらな耳と、頭と、ちょっと空腹な胃袋と。
1日の始まり、ピアノの音は真っ直ぐ私の中に入ってきて、何とも心地よい。
私の幸せで贅沢な時間。
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